☆ 沖縄に関する様々な情報
沖縄への旅程
石垣島への旅は、空路のみになります。
各航空会社、各格安航空券販売サイトへお問い合わせ下さい。
○航空会社
*JAL
http://www.jal.co.jp/
*ANA
http://www.ana.co.jp/asw/index.jsp
*JTA
http://www.jal.co.jp/jta/
○格安航空券販売サイト
*空の旅.com
http://www.soratabi.com/
沖縄への引越し
沖縄への引越しにかかる費用は最も気になるところ。
やはり引越し業者や引越し見積もり比較サイトで調べるのがよろしいです。
○引越し業者
*ヤマト運輸
http://www.kuronekoyamato.co.jp/
*西濃運輸
http://www.seino.co.jp/seino/
○引越し見積もり比較サイト
*引越し比較.com
http://www.hikkoshihikaku.com/index.html
沖縄での就職に関して
沖縄へ移住するにあたり大事なのは生活の源です。当然収入源が無いと厳しくなります。
事前にハローワークのWEBサイトをあったてみるのも大切です。
*ハローワーク
http://www.hellowork.go.jp/top.html
沖縄基礎知識
○沖縄県のすがた
沖縄県は、地理的には九州から台湾までの琉球弧のほぼ南半分を占める琉球列島をさし、北緯26度、統計127度を中心とする広大な海域に点在する大小160の島々(0.1ku以上)から成ります。
県土は全国で44位ですが、県域では、那覇から与那国島までの距離が、東京から徳島県の距離に等しく、全国一広域にわたる県です。
島しょのうち、有人島は48(沖縄本島と架橋等により連結された島を含む)です。
○気象
【亜熱帯海洋性気候】
沖縄県の気象は日本唯一の亜熱帯海洋性気候に属し、夏は南東風、冬は北東風が強く吹きます。黒潮の関係で冬期も暖かく、年平均気温は20.5度、降雪・降霜もほとんどありません。
また年間降水量は2,037mm(那覇市を基準)で、月平均降水量も100mmを下ることはありません。
年日照時間は季節的な変動が大きく、夏期に長く冬期に短い特性を持っています。
また地理的に台風の進路と転向点に位置するため、夏秋期には集中して台風が襲来します。
【沖縄の四季】
夏が長く、天候の安定する盛夏期は6月末から7月中旬になります。
梅雨期は本土より約1ケ月ほど早く、梅雨期から夏にかけては高温多湿で、雨は熱帯なみに強く降ります。
また、猛烈な台風が多く襲来します。
冬は一般的に季節風が強く、くもりや小雨の日が多くなります。
風の強い日が多くて、那覇市は特に10月〜3月にかけて多くなります。
春秋が短く、季節の変化は本土ほどはっきりしていません。
【季節の言葉】
・二月風廻り[ニンガチカジマーイ]・・・近海で発生する小規模低気圧で春先の3月ごろ多発します。
強い季節風が吹き、海上は台風並みの大シケとなります。
・うりずん・・・大地が潤う穀雨の時期です。(対語→若夏)
・若夏・・・初夏の事です。古謡おもろの季語でもあります。
・小満芒種[スーマンボースー]・・・梅雨期の多湿酷暑のさまを言います。
・夏至南風[カーチベー]・・・夏の南東季節風の事です。
・新北風[ミーニシ]・・・北寄の季節風の事です。沖縄における寒さの訪れです。
・冬至寒さ[トゥンジービーサ]・・・冬至の頃の寒さの事です。
・別れ寒さ[ワカリビーサ]・・・寒のもどりの事です。
【沖縄の気象特徴】
[1月] 服装:ジャンパー、セーター等
平均気温16.6℃。強い北東季節風が吹き雨の日が多くなります。
気温は最低でも10℃ですが、風により寒さを感じます。
下旬には寒緋桜が満開となり、花のカーニバルが開催され、タンカンの収穫も始まります。
[2月] 服装:ジャンパー、スプリングコート
平均気温16.6℃。1月と同様、寒暖の繰り返しですが、ひと雨ごとに暖かさが増します。
旧暦による行事も多く行われます。
桃が咲き、八重山ではウグイスが鳴き始め、本島北部や慶良間諸島ではケラマツツジが開花します。
[3月] 服装:長ソデシャツ、トレーナー程度
平均気温18.6℃。日に日に暖かくなり、八重山では県花デイゴ、西表では幻の花セイシカの花が咲き始めます。
二月風廻り(ニシガチカジマーイ)と呼ばれる低気圧が発生し大シケになるので、海のレジャーや船舶は特に注意を要します。
[4月] 服装:半ソデシャツ、Gパン等
平均気温21.3℃。初夏です。沖縄では、うりずんと呼ばれる最も良い時期です。
各地で浜下りや清明祭(シーミー)の行事が行われます。
海岸ではアーサ(ヒトエグサ)やモズクの収穫ができ、セミも鳴き始めます。
[5月] 服装:半ソデ、半ズボン
平均気温23.8℃。上旬から蒸し暑くなり、ゴールデンウィークを過ぎた頃から梅雨に入ります。
沖縄の梅雨は、24節気の小満から芒種のころにあたることから小満芒種(スーマンボースー)と呼びます。
山間ではスモモやヤマモモが実をつけ、イジュや月桃の花々が咲き始めます。
上旬にはハブ注意報も出されます。
[6月] 服装:日よけの薄手のシャツ、サングラス
平均気温26.6℃。沖縄の梅雨は比較的期間が長いのですが、末期は大雨の日が多くなります。
慰霊の日(6月23日)前後の、旧暦5月4日のハーリーとともに梅雨は明けます。
湿度も80%以上に上がり、寝苦しい熱帯夜が始まります。
[7月] 服装:サングラス、薄手長袖シャツ
平均気温28.5℃。酷暑が続きます。
しかし最高気温は本土と比べて高くはなく風もあるので、ジットリとした暑さではありません。
下旬になると台風も発生し始めますが、渇水傾向のこの時期には恵みの雨をもたらします。
[8月] 服装:帽子、サングラス、薄手長袖
平均気温28.2℃。マリンレジャー最盛期です。
2期作の田植えを終え、旧盆の行事が各地で行われます。
この頃の雨は片降り(カタブイ・・・局地的に降る雨)やスコールが多くなります。
グァバやアダンの実など、夏を代表する果実がよく見られます。
[9月] 服装:半ソデシャツ、サングラス
平均気温27.2℃。中旬まで暑さは続きます。下旬は日差しもいく分弱まってきます。
9月に台風が接近する時は大型化する傾向があり、襲来すると被害も大きくなるので警戒を要します。
ススキが咲く頃にはしのぎ易くなります。
[10月] 服装:半ソデシャツ、薄手カーディガン
平均気温24.9℃。月始めから朝夕は幾分涼しくなり秋の気候を呈します。
新北風(ミーニシ)が吹き始め、サシバが渡ってきます。
那覇大綱挽や竹富の種子取祭(旧10月吉日)など、豊年祈願の祭りの多い時期です。
まだまだ泳げるのでマリンレジャーも充分楽しめます。
[11月] 服装:合服、長袖、薄手カーディガン
平均気温21.7℃。4月と同じく気持ちの良い気候です。
北風が吹く日は曇りや小雨が多いのですが、全般的に気候は安定します。
各地で文化祭や芸術祭、サントピア沖縄などのイベントも多く行われます。
[12月] 服装:トレーナー、Gパン
平均気温18.4℃。風は少々冷たいのですが、雨は少なくなります。
冬至を境に寒くなり、小雨が降り始めます。冬の沖縄の海でもダイビングは楽しめます。
NAHAマラソンは世界各地からランナーが集う一大イベントです。
○沖縄の歴史概観
【先史時代】
沖縄の島々に最初に住みついた人間は日本語を話し、日本文化をもつ人々でした。
その証拠に、沖縄の島々においても縄文文化が発達しました。
しかし、日本列島のはるか南の地にあり交流も薄かったため、沖縄の島々は次第に独自の道をたどるようになりました。
縄文時代の終わり頃から個性化を強めましたが、次の弥生時代になると本土文化の影響はさほど受けていません。
そして古墳時代にいたっては、その時代の痕跡すら沖縄では確認できません。
【王統のあけぼの】
12世紀に入ると、沖縄の島々でもようやく穀類栽培農耕と鉄器を伴う物質文明が本格的に展開しはじめました。
そのような時代を背景に各地に按司(あじ)と呼ばれる首長が登場し、グスク(城)と称する城塞を構え、
相互に対立する激動の時代を迎えました。
【三山統一と大交易時代】
諸集落の支配者となった按司達(豪族)は、互いに勢力を強め、
14世紀の初めには北山(ほくざん)の怕尼芝(はにし)、中山(ちゅうざん)の察度(さっと)、南山の承察度(しょうさっと)が相争うようになりました。
時を同じくして明との貿易も始まりました。
1372年、明の太祖が察度に入貢をうながしました。
これが沖縄と明との公式貿易の始まりだと言われています。(私貿易はそれ以前から行われていました)。
臣下と称して貢物を献ずる国王に対し、明の皇帝は多くの賜物を与えました。
沖縄はこうした機会を利用して諸物資の交易を行い、莫大な利益をあげました。
怕尼芝や承察度もそれにならい貿易を始め、三山統一前の1415年までに中山は42回、北山は11回、南山は14回の進貢船を出しています。
物資の貿易だけでなく、文化の交流もこの頃より盛んになりました。
1392年、察度は明皇帝の認可を得て三人の留学生を中国最高学府、国子監(こくしかん)に派遣しました。
この制度はその後500年もの間存続し、多くの人材を育成したほか、中国文化の導入に大きな役割を果たしました。
同じその頃「びん人三十六姓」が渡来しました。
びん人とは福建人のことで、那覇の久米村に移住し、明との貿易・通訳・往復文書の世話にあたり、
文化の向上にも尽くしました。
明との貿易や文化交流が行われる中、三山の統一は着実に進んでいきました。
佐敷按司・尚巴志(しょうはし)は1406年、中山王・武寧(ぶねい)を滅ぼし、彼の父である思紹(ししょう)を中山世主としました。
その後、尚巴志は1416年に北山王・攀安知(はんあんち)、1429年に南山王・他魯毎(たるみい)を滅ぼして、
武力による全島統一を果たしました。これにより「琉球王国」が誕生したのです。
琉球王国は首里に首都を定め、首里城は1879(明治12)年まで450年間、歴代国王の居城となります。
特筆すべき国王は、第二尚氏尚円の息子、尚真王です。
尚真は諸間切(村の意)の按司を首里に集め、刀剣、弓矢をおさめさせ、中央集権を確立させました。
身分制度を定め、かんざしやはちまきで区別しました。
仏教を広め学芸を奨励、殉死の禁止、玉陵(たまうどぅん)、真玉橋(まだんばし)、円覚寺、円鑑池、園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)などの土木工事を手がけました。
また、財源として欠かせない中国やマラッカ、シャム、スマトラなど東南アジア諸国、さらに日本との中継貿易を盛んにして、文物を輸入しました。
中継貿易に関しては、ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』に伝えられています。
このような中継貿易は、15世紀に最も盛んに行われ、琉球王国の黄金時代でもありました。
【島津進入と本土文化の影響】
1591年、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関して秀吉と島津義久が時の琉球国王、尚寧(しょうねい)に書を宛てました。
秀吉『明年の春に朝鮮征伐を予定している。汝も兵を率いて参加するよう。命にそむけば国を攻め滅ぼす』
島津『関白は朝鮮征伐において、薩摩と琉球あわせ1万5千の兵を送るよう、命じている。
琉球は軍事になれないので義久のはからいで兵は薩摩の負担とす。その代わり7千人の10か月分の食糧を明年2月までに高麗に送るように』
さらに翌年、秀吉は島津氏を通じて沖縄側からも出兵させようと命じましたが、
時の三司官・謝名鄭迥(じゃなていどう)はこれを拒否、後に島津侵入の口実となりました。
1609年、島津は3千余の兵を率い、奄美の島々を征服して、運天港と読谷山の渡久知から上陸しました。
当時の琉球は武器を持たない平和な島として100年も続き、
鉄砲などの新しい武器を持つ島津軍の前には、なすすべもありませんでした。
1週間後、尚寧は和を求め、その後200年余り、対外的には小王国としての存在を許されながらも、実質薩摩の支配におかれました。
薩摩は琉球の中継貿易の利益を一手に収め、琉球には重い税を課し、幕末における薩摩藩財政を充実させるもとになりました。
さらに琉球の人々の行動を厳しく統制する掟十五条の施行や、明の冠船が琉球に来る際には薩摩に支配されていることを気づかれぬよう、
大和言葉の使用を禁じ、大和書物やその他の、中国人に見られてはまずいものを全て隠すようにとの布令まで出されました。
このように琉球は、産業・政治・貿易に至まで、明と薩摩に両属する立場におかれました。
島津侵入の重圧はあるものの、薩摩を通して大和文化が花ひらいてゆきました。
久米島紬や上布、かすりや紅型など染織物の技術的向上がありました。
朝鮮出兵の際、日本を通じて琉球にもたらされた焼物技術が湧田焼(後の壷屋焼)に伝えられました。
また琉球独自の技法である「堆錦法(ついきんほう)」の漆器は薩摩に伝えられています。
宮廷料理には日本料理の要素も加わり、独自の食文化が形成されました。
芸能においても例外ではありません。能や歌舞伎、浄瑠璃、文楽等にヒントを得た玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)が1719年に組踊を創作するとともに、
和文で書かれた歴史書『中山世鑑』の編さんや琉歌、国文学や教育制度も充実していきました。
その間、羽地朝秀(向象賢)や蔡温といった有能な政治家が登場し、政治改革を行っています。
【開国と琉球処分】
19世紀の初め頃になると、沖縄をめざして欧米人が来航するようになりました。
1816年のイギリス艦長バジルボールを皮切りに、44年はフランス軍艦アルメーヌ号、
46年はイギリス人宣教師ベッテルハイム、54年にはロシア軍艦、特に53年のペリー来航は日米和親条約の足がかりとなりました。
翌年、琉球も琉米修交条約を結びました。
その他、55年にフランス、59年にはオランダとも条約を結んでいます。
明治維新により近代国家としてスタートを切った日本は、琉球の扱いが最大の問題となりました。
琉球は薩摩の支配を受けているものの対外的には王国として存在し、中国の冊封を受け属国の扱いをされる存在でした。
本土では明治4(1871)年に廃藩置県が行われていますが、
翌年、琉球王国を「琉球藩」とし、段階的に日本の国土であることを諸外国に知らしめようとしました。
琉球処分官・松田道之を琉球に派遣し、何度か説得を図りましたが、当時の琉球支配者階級の反対にあい難航しました。
明治12年、松田は警察や兵、官吏ら妬く600名を引き連れ、強引に沖縄県を設置、またもや外圧による支配が始まりました。
ここに国王は城を明け渡し、500年の長きに亘る琉球王国が崩壊、日本の一部となりました。
日清戦争前までは、民衆は中国からの救済を期待していましたが、
清が敗れると、中国への失望と同時に、日本社会への一体化が急速に進行しました。
長いものにはまかれなければ生き残れない沖縄がそこにありました。
王国の崩壊は、必ずしも悪いものだけではありませんでした。
土地改正によって、農村に縛られていた農民は個として解放され、
また、教育の充実、新聞や雑誌の創刊、政治運動や帝国議会への参加、工業の発達など、
近代社会へのスタートが切られたのも事実です。
【太平洋戦争から米軍統治へ】
クシャミまでも大和口(ヤマトグチ・・・日本語)でという風潮の中、急速な日本同一化は琉球文化を抑圧し、
極端な皇民化教育と共に、悲惨を極めた沖縄戦へと突入、多くの命が散っていきました。
やっとの思いで鉄の暴風をくぐり抜けた県民を待ち受けていたのは、またもや外からの支配、米軍によるものでした。
1940年代後半、荒れ果てた沖縄には米軍による犯罪も多発しました。
オキナワ・デイ(米軍上陸1年目の46年4月1日に設定された休日)のニューヨーク・タイムスでは
「住民は米軍統治におとなしく従っているものの、実際は早く帰ってもらいたいようだ」と述べています。
当初は米軍も沖縄を軍事上、それほど重要視していませんでした。
事が急変したのは1950年以降です。
中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発により、太平洋の要石(キーストン・オブ・ザ・パシフィック)として、
ベトナム戦争終結まで、実に30年近くにわたり米国支配が続くのです。
統治時代で最も有名な高等弁務官(現地最高責任者)がキャラウェイです。
彼はケネディ大統領が強調した日本強調路線に反し、沖縄の離日政策を進め、キャラウェイ旋風と呼ばれました。
1960年代前半はドルの加護で経済も安定しましたが、後半はかげりが見えてきました。
黒人と白人の対立、乱闘が頻発、ベトナム帰休兵と共にドラッグも大量に流入してきました。
米軍の不平等裁判や秩序の乱れに対し、沖縄住民の不満が爆発したコザ騒動(1970年)は、
米軍にとっても沖縄にとってもセンセーショナルな事件でした。
さまざまな問題を残しながらも、1972年5月15日、日の丸はためくBig R-Day(ReversionDay)を迎えました。
沖縄は日本に”復帰”したのです。
※参考文献:
美ら島-沖縄観光情報ファイル-(財.沖縄観光コンベンションビューロー)